死と生と

 今日は午後から外回り仕事だった、不肖・ロズ子○○歳。
 サファイアの結晶を眺めつつ昼食をとり、そのあとで会社を出た。瞑想的気分(←大丈夫か、自分?????)で車を運転していると、道路わきにかためて栽培されている紫陽花の花(←ものすごい紫外線入りの陽光に焼かれ中。)が目に入る。
 そのピンクがかった紫色の花を見ながら、去年の同じ時期のことを考えていた。「…そのころは、上司の△△さんは生きていたんだけど…」と(爆)。
 △△上司は病を得て、去年の今頃はまだ大丈夫だったが、その後亡くなってしまった。亡くなった当時は全く実感がわかなかったのだが、その後毎日のようにこの上司のさまざまな言動を思い出している(←いい言動も、「それは言わないほうがよかったんじゃないの?」という言動もある。)。
 いずれにせよ、人の死っていうのは、このように生きているものに持続的な影響を与えるのだなあ(しみじみしみじみしみじみしみじみ)。
 ついでに(と言っては何だが)、夭折した知り合いのことも思い出す。この知り合いは粗野で乱暴で自分勝手な人物だった(と思う)が、亡くなる何日か前、とても穏やかな顔で笑っていて、しかもその顔から光があふれ出しているように見えたものだった。
 「この世を離れる」ということを、魂が知っていたのだろうか(@推測)。夭折の原因は事故なのだが、それは偶然ではなく、決定していたことだったのだろうか、と、光がこぼれるような知り合いの顔を思い出すたびに思うのであった。
 だから人間、きれいになりすぎると危ないのよ。というのは、この経験から導き出された(特殊かもしれない)経験則である(大大大大大爆発)。
 エゴからの苦しみや軋轢、醜い自分といったものから脱却しようとして自分を磨いたり余計なものをそぎ落としていくのは大変よいことだとは思うが、やりすぎると、そしてきれいになりすぎると、彼岸に渡ってしまうことになるのでは。
 などと運転しながらぼんやり考えたのであった(爆発)。
 あまり汚れているのも何だが、人間が人間らしくあるというのも、結構大事なことなのかもしれない。
 だから私がエゴで狂乱・奔走するのも、ある程度はいいんじゃないかしら
 などと、熱いアスファルトの上で容赦のない日光を浴びる紫陽花を見つつ、しみじみと考えた私であった。
 ところで、「生きる」ことについてアグレッシブに臨むとすると、今日のニュースで扱われなかった「福島の子どもの尿からセシウム検出」というのは、看過できない大事件だと思うのだが(大大大大大爆発)。
 尿からセシウムということは、内部被曝しているということだ(しみじみ)。それも16歳までの子どもだ。
 「福島県産野菜を食べよう」とか「風評被害」と言い続けてきた結果がこれだとすると(←予想できまくった結果ではあるが)、本当にどうしてくれるわけ?(どうにもできないだろうけどさ。)。
 と、私は政府とメディアに対して(文句を)発言するのであった。
 しかもこのニュースをテレビで流さぬとは(爆発)。
 もおう本当に、お年寄りに政治をまかせておくのは全然、ぜんっぜんダメだ。と私は思うのであった。(←原発を争点にした解散総選挙をとりあえずやって!!!!!【@要望。】)