おもしろいものを見た

 こんなタイトルじゃ関係者は激怒するであろうが、私は今日、mixi内をさまよっていた。どこかの石のコミュニティが、鉱物の名称をめぐって紛糾しているというから、それを探していたのである。(注:物見高い。)
 そのコミュニティの参加者の方の多数派が気分を害されている様子で、「もうこんな論争見たくもない」という人が多そうだったが、私は「他人のケンカを見るのが大好き」なさもしい根性全開の不肖・ロズ子○○才。あふれんばかりの野次馬根性でそのコミュニティを探し当て、拝読したのである。
 で、初発の感想だが、「おかしくて、思わず笑ってしまった」というのが正直なところだ(自爆)。「アゼツライト」だの「アンダラクリスタル」だのに血道をあげている不肖・ロズ子○○才などがのこのこ出て行ったら、一発退会になりそうなこのコミュの鉱物呼称統一論争(自爆)。
 それにしても、何でこんなに一生懸命論争しているのであろうか(大きなお世話だが)。鉱物科学研究所さんでローズクオーツの結晶を買ったときも、たしかラベルには「Rose Quarz ブラジル産」などと記載してあったように思うぞ(←うろ覚え)。
 北原白秋だかの詩(←これまた、うろ覚え。)に「薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク 何事ノ不思議ナケレド」というようなのがあったと思うが、これを思い出した。鉱物の呼称なんて、所詮人間が作り出したもので、しかも国によって言語は異なる。何と呼ぼうが呼ぶまいが、ローズクオーツはあのような美しいピンク色で、黒曜石は真っ黒のつやつやさ。名は体を表す、というものの、名前などなくても、そんなことは関係なしに、美しい石は存在する。
 常々思っているのだが、「分類」は人間がしているものであり、分類されているもののほうは、そんなことには委細頓着なし、というところであろう。
 私にもよくあることだが、細部を気にかけるとどんどんそこにのめりこんでいってしまい、他の景色は見えなくなってしまう。「こだわり」が生じると、私はがんじがらめになり、不自由になっていく。
 「人間みな明るく楽しい一生を!」と提唱した、私が敬愛する大学の先生は、「多方面から柔軟に物事を見なさい。不自由なものの見方の人は、不自由な生き方しかできない。」といっておられた。私はこのセンセイのご意見について、まったくもってそうだと思う。
 「守るべきものが多い」ということは、何と不自由なことだろう。私も保守に回ると途端に自分のエネルギーが停滞するように感じるが、「守るべきもの」だと思って自分がしがみつくものの大半は、おそらくやっぱり、幻想なのだろう(想像)。
 「もう早くこんなことはやめて!」というのが、大半のコミュニティ参加者の願いであるようだが、こういう論争はとことんまでやっておかないと!!!!!!!不完全燃焼では、あとで欲求不満になるよ!!!!!!!!!(扇動。)