アゼツライトその後

 昨日は、「おお、よしよし。人間に祭り上げられたり、かと思うと『どこにでもある石英』と言われたり、お前にはぜんぜんそんなこと関係ないだろうけど、しみじみ気の毒ねえ。」という激しい憐憫の情にかられ(爆)、アゼツライトを右手に、リチウム・クオーツを左手に握って布団に入った、不肖・ロズ子○○才。
 それはたぶん、「そういう石を買うダメ人間」という烙印を押された(←たぶん。)、自分自身への憐憫だったであろう。(←自己陶酔。)
 朝になったら、リチウム・クオーツは手の中にあったが、アゼツライトは放り投げていた私(←ううう、すまぬ。)。朝の光のなかで、くだんの石が「ただの石英」に見えた程度には、他人の意見によってゆらぎやすい私である。
 だがその後、「本当に他人の評価なんてしょうもない。」と思わせられた出来事があり、今はすっきりさわやかである。はなから自分の勘に従うのでOKだったのだ。(しみじみ。)
 大学生だったころ、大変敬愛していた哲学の先生は、「あまりこうあるべき…とか目くじらたてないで、人類皆、明るく楽しい一生を!」と言っていた。素直な(爆)大学生だった私は、その言葉にいたく共感したものである。
 石へのアプローチなんて、(そもそも趣味なんだから)どんな形でもオールOKだろ!!!!!!!!!
 私は他人の評価をどこまでも気にする女であるから、「あそこでああ言われていた」「ここでこう言われた」をいちいち気にするのだが、しかし、結局は自分の思ったとおりにしか行動しない。
 その意味では、すっごい自己信頼ぶりなのであった(自爆)。
 で、特に意味はないけど、次はペタライトに走るのであった。(爆)
 哲学の先生は、こうも言っていた。「孤独と自由。集団は必ず個を圧殺する」と。(しみじみ。)
 「仲良し」も結構だけど、そのせいで不自由なことだって、たまにはあるんじゃな〜〜〜い?????????(問いかけ。)