ウランも鉱石

 今日は原爆の日。不肖・ロズ子○○才は、朝から記念式典のTV番組を見て過ごした。
 原爆記念式典の生中継を見ることは今までもあったが、今年は特に厳粛な感じに見えた。広島市長の力強い宣言も、子ども代表の心のこもったことばもすばらしい。
 安倍ちゃんだけちょっと力がなく、「おまえは本当に非核三原則を堅持しようと思っているのか??????」と突っ込んでみたいような感じであった。首相は、記念式典に出ないつもりにしていたけど、急遽参加することにしたと昨日のTVで聞いたような気がしたが、幻聴だったんでしょうかね(←そうかも。)。
 夜は夜で、NHKスペシャルで昨日からやっている「核」の番組を見た。
 昨日偶然目にしたとき、「こ、これは、最先端!!!!!!!」と思ってみたのだが、見れば見るほど「核」がいかに人間の手に負えないものかということを確認してしまう。イランに「核をつくるな」とアメリカが言ったって、そりゃイランは納得いかないでしょう(しみじみ)。私は政治や国際社会のシステムにはうといのだが、「核査察」って結局アメリカより?????????(←そんな感じ。)
 うちのそばにも原発があり、「あれが事故やら地震やらでまずいことになったらどうしよう。」ということが常に頭のなかにあるのだが、核爆弾はやっぱり、全然、原発の比ではないでしょうねえ(しみじみ)。ああいうもののどこが「国益」なのか、理解に苦しみまくるところである(←理解したくもねえ。)。
 人間とは、本当に罪作りなものだ。
 ヒロシマの人々は、アメリカを憎み、仕返ししたいという気持ちもあるなかで、しかし憎しみは何も生まない、同じことの繰り返しになるだけ、どこかで断ち切らなければならない、自分たちのところで断ち切ろう…としてきたのだという。今日祈るヒロシマの人々は、皆一様に「戦争はいけない。絶対にいけない。」と言っておられた。
 振り返って私はどうか。毎日(もちろん、今日も!!!!!)、「あの人にああ言われた、こうされた、仕返ししなければ、取り返さなければ。」と思う瞬間だらけである。会社での小競り合い、嫌いな親類への過剰に冷たい態度、etcetc。そして思うのだ。「ああ、石が見ている。」と。
 「そこに行くか!!!!!」と言うことなかれ(←言ってもいいけど。)。皆がお気に入りの石を持って、その振動を感じて、少しでも恐れや利己心や権力欲やなにやかやを手放し、思いやりを持てたら。それは本当にすばらしいのではないだろうか。
 「他の国が核を持っているのに、自国が核を持つ権利を奪われるのはおかしい」だの、「自分の国は持っていてもいいが、他の国に核が拡散するのは危険で、許せない」だの。
 そういうの、天使でなんとかならないものであろうか。いや、マジで(←本気。)。
※あとで検索してみたところ、安倍首相が欠席予定にしていたけどあとで面会時間を設定したのは「被爆者代表から要望を聞く会」であったとわかりました。不勉強で日記を書き散らしてすみません(陳謝)。原爆記念式典を欠席する首相は、いくらなんでもいやしないやね(反省)。謹んで私の誤解を訂正いたします。