本質とは何か

 昨10日は、年齢度外視の長時間運動をうっかりしてしまい、足だるだるのだるだるで布団に倒れこみ、足枕をして眠ってしまった、不肖・ロズ子○○才。
 この運動による筋肉痛は、おそらく明日がピークであろう(涙)。このところ、筋肉痛は「1日ないし2日おいて」出るのが通例になっており、そこに体年齢を如実に感じてちょっと悲しい私である。
 さて、そんな10日、私は疲れて布団に倒れこんだので、石を握らずに眠った。
 午前3時過ぎに1度起きてトイレに行ったが、そのときにカバンにあったクリアー(じゃなくてちょっとブルーグリーンの)アンダラクリスタルを取り出し、布団へと持っていった。このアンダラは、ハート型というかスカルっぽいというか、そういう形(←どういう形だ!!!!!)である。
 手に握った当初は、じんじんとした波動を感じ(←たぶん。)、脳天まで何かが突き抜ける感じであったが、朝になったらその感じはすっかりなくなっていた。アンダラ、休憩タイムに入ったと見える(想像)。
 石にも、しゃべりたいときとそうでないときがあるのか。はたまた、私という受け手のコップが、口を開けていたりさかさまになっていたりということなのか。
 こんなこと書いてるうちに、いままた高揚してきた。胸がどきどきする。
 現世利益を求めて石を握っている私だが、私が求める現世利益とは、果たして何なのだろう。
 地位?(それはあるな。)名声?(それもあるな【←しかし、名声を得るとっかかりもなし。】)お金?(それはものすごくあるな。)健康?(絶対にあるな。)全般的な幸福感?(それそれ、それものすごくあるな。)バラ色の人生?????(一言で言えば、そういうことだな。)
 しかし、金曜日にNHKの「ふるさと発」という番組で、禅修行にはげむ外国人の様子を見、ちょっと今考えているところである。
 岡山のお寺に修行に来ている、たくさんの外国人の皆さんは、地位、名誉、お金を十分に持っていたが、それらを捨てて修行に入っている。持てば持つほど、人生がむなしくなり、「本当の幸せとは」と考え始めるらしいのだ。
 そのお寺の住職さんは、「今、人間は科学技術の恩恵を受け、いまだかつてない裕福な暮らしをしているが、そうなればなるほど、心はむなしくなっていくというのも、また確かなことなのです。」と言っておられた。
 うーーーーーーむ。石貧乏と会社の業績悪化で、激やばい経済状態になっている私は、「お金さえあれば安心安全、幸せになれる!!!!!!!!!」と思っているのだが、外国の、年収何千万の20代のモデルが、「むなしい」といって頭を丸めて坊さんになっているのを見ると、いったいどういうことなのか、と考えざるを得ない。
 私は今まで、「世界とこすれあって修行することこそが人間を磨くことであり、社会に貢献することが徳である」(←もちろん、私は全然できてないが。)と思っていたが、外国人修行者の質問に答えて、住職はこう言っていた。
 「社会貢献することと、禅の修行をして人間の本質を見つめることとは、全く異なるのです。」
 禅の目的は、「われわれは何者で、なぜ生まれてきて、どこへ行くのか」という本質を見つめることであるという。
 何だかな〜〜〜。私もそれを見つめたいのだが、「石を見つけると、それに向かってわーーーーーっと走っていく」心を持っている限り、本質を見つめるのは困難かな(しみじみ)。
 そんなことできないけど、石や物を整理して、「禅的清浄空間」を作ることが、それに向かう第一歩であるような。
 そのとき、「象徴アイテム」としてアンダラクリスタルを置いておいてもいいかな?????????(←たぶんいいであろう。【いや、どうかな。】)