まさか再生石

 2月2日は親類のお通夜に行った、不肖・ロズ子○○才。
 黒い服を出すのにも「どれだったっけ?????」としばし考え、「そういえば近年、葬儀にはとんとご無沙汰であったな(←幸運。)…。」という感慨にふけった。
 人は必ず死ぬ。この私もそうだ(←言ってるけど、実感なし。)。親類も、生きているみぎりは「絶対に死にそうもない人物」であり、そのユーモラスかつ傍若無人な自由意思行動の数々は、だいたいは「困った人」扱いで、軽い非難の対象になっていた(←いやいや、すみません、死んだ人に。)。
 そういう、「生前の逸話が笑える話ばかり」という人は、実はそれが大変な徳になっているのではないか(←愚考)。
 「この人が死んだらもう生きていけない」とか、そういう「ものすごく惜しまれる人」は、後に残された人々に多大な喪失感と悲しみをもたらす。生前を思い出すと、困った笑える話ばかり(←注:私にとっては、だが。)、という人の死に顔を見れば、それは「まさに抜け殻ですね。」と言う感じで、「充分に生きて、光の世界に上がったんだね。いってらっしゃい。」という気持ちがするばかり。
 ま、それというのも親類が、平均余命を思いっきり越えて「充分に生きた」と思えるからに他ならない(←本人はもっともっと生きたかったであろう)。その意味でも、長生きすること(寿命を全うすること)は大事だ!!!!!!という認識を新たにした私であった(爆)。
 さて、2月1日に、私はパラマハンサ・ヨガナンダについて「長生きしていない」と書いた。
 ヨガナンダは59歳ぐらいで亡くなっている。確か、沖正弘というヨギも、たいして長生きしていないはず(←たぶん)。ヨギではないが、野口体操の人も特に長生きしているわけではない。レイキの創始者もそうなのでは。と、かねてからいぶかしく思っていたのだが…。
 なんと、「はてなダイアリー」の関連語検索を何気なく押してみたところ、ヨガナンダは59歳の年に「マハサマディ」の瞑想に入って、自ら命を絶ったというのである!!!!!!!!!
 ダンテス・ダイジという人も、確かそんな感じであったような(←マハサマディの瞑想によるかどうかは知らないが)。
 そういう「死に方」ということになると、これは「長生き」に価値を見出していないというか、「もっと大事なことはほかにある」と考え、実践しているということになる。そして、その考えは、たぶん真理なのであろう(←想像)。
 パラマハンサ・ヨガナンダを「師」と慕う人が多かったであろうことは想像に固くない。多くの人はヨガナンダに「行ってほしくない」と思ったに違いないが、それでもヨガナンダは自分の知る神の世界へ行ったのであろう。
 身体を制御して、意思的に向こう側へ行く(まさに解脱。)。意思に反して暴力的に身体の外へ出てしまうよりはたしかにいろいろ感じ取ることもでき、よさそうな感じであるが。
 もちろんフツーの人の人には激難しそうなので、フツーは惜しまれなくなるまで長生きするのが、自分のためにも残された人のためにもよろしいだろうと思うのであった。
 お通夜や葬儀には、当然石を持っていかない(←なんとなく。)私であるが、車の鍵に天然石のストラップをつけているので、結果としてそれらの石とは通夜葬儀でも行動をともにすることになる。今回もそうであった。
 これは、パルバティ産ヒマラヤ水晶を買ったときにおまけでついてきたもので、輪っかになったマラカイトとレッドアベンチュリンの、合計2つのストラップである。
 輪っか…(しみじみ)。なんとなく象徴的な形状である。緑と赤という色合いも、「再生」「命」と「エネルギー」という感じ。
 実はこの鍵をしょっちゅう落とす私である(←もちろん、すぐに拾う。粗忽なので取り落とすのである。)。一度、マラカイトのさざれビーズ1個が二つに割れたことがあり、大変残念に思っていたのだが…。
 その後、何度か見直したのだが、どうもその「割れたところ」が見つからないのであった(自爆)。
 いや、見つけることができないだけだとは思うのだが。
 まさか再生石(大大大爆発)。