神の前に、神と共に、神なしで生きる

 17日は1日外出していた上、夜はまた「コタツ&本」で爆睡してしまい、この日記を18日にやっと書いてる、不肖・ロズ子○○才(大爆発)。
 17日は朝日新聞に感銘する記事があったので、それについて書く(爆発)。
 朝日新聞の土曜日には、「生死を考えるページ」というか、何かこう、スピリチュアルな感じのページがあるのだが、17日にはそこに、生命科学者の柳澤桂子さんのインタビューが載っていた。
 柳澤さんは難病で、苦しい療養を続けながら著作をしておられるようなのだが、そのインタビューの中で印象的だったのはまず、「私も苦しい中で、神秘体験と思われるものを何度かしましたが、そういったものはおそらく脳の働きで、今後科学ですべて説明可能だと思います。」とおっしゃっていたところである。(←注:原文のままではなく、私のうろ覚え引用。)
 近頃のアンダラ騒ぎや、(今までそういう記事にドキドキしてあまたの石を購入をしてきたわけなのだが)スピリチュアル全開という感じのインターネット上のいろいろな記事を読むことにより、私はちょっと冷めた気持ちになっていた。「…何か、やっぱり妄想なのでは。」とか、「見える感じる!!!!!とというところが嘘っぽい(←すみません。見えないもののひがみかもです。本当に見えるのかも。)ような気もする。」という感じである。
 そこにもってきて、近頃の調査で「ガン患者はそうでない人と比較して、死後の世界を信じない傾向にある」という結果が出たということも目にし、これも私にとっては衝撃的であった(しみじみ)。
 ガン患者。おそらく、日々死を強烈に意識し、残り時間が少ないからこそ、自分にとって本当に大切なものとそうでないものとを真剣に吟味しているであろう人々。そういう方々が、「死後の世界なんて、元気な人が描いている夢想なんだ。」と実感しているとしたら。「本当に大切なもの」はそういうことではなく、生きているこの世界であり、愛する人々であり、自分自身なのだと感じておられるとしたら。
 そっちのほうがたぶん本当の「スピリチュアル」なのではないかと考える私なのであった(しみじみ)。
 例えば自分の余命がいくばくもないかも、と思ったとき、「石を心の友に。」と思うのか、「ああ、石なんかを欲望のままに買ってきた自分はバカだった。人生で本当に大切なことは、そんなことではない。」と思うのか。それはそういう状況になってみなければわからないし、今の自分だったら「石を心の友に。」と思うに違いないとは思うが、果たして実際はどうか。
 タイトルの言葉は、柳澤さんが理想とする境地だということであるが、この言葉についてはまた今晩(←ちゃんと書けよ、自分!!!!!!【←近頃眠りがち。】)