雪絵ちゃんの願い

 日記だから正直に書くが、私は障害を持っておられる方とかお年寄り(←私も長生きすれば、確実に「お年寄り」になるのだが。)とか、ボランティアとか、そういうことに全く興味がない(大爆発)。他者のお世話するのは面倒で、自分がお世話されて楽したい(大大大大大爆発。)という怠惰な自己中心女なので、「興味がない」というよりは、「面倒なことを遠ざけたい。」という、エゴの塊による「見ないふり」である。(すみません。)
 だから、そういう方の情報に触れる機会があっても、適当に読み流すか、「気の毒にね(でも私には関係ないわ。)」で終わってしまうのが通常(大大大大大爆発)。要するに、私の、石買いをはじめとする「スピリチュアル」というのは、自分だけが救われたいという、我が身かわいさのエゴ・スピリチュアルなのだが、それでもどうしてもこれは、と思える文章に昨日出会った。「雪絵ちゃんの願い」というページである。↓
http://www005.upp.so-net.ne.jp/kakko/eigoyukie/yukiechanswish2.html
 ちょっと長いけれども、ぜひ読まれることをお薦め、である(しみじみ)。私はこの文章を昨日と今日の合計2回読んだが、ひょっとすると私、毎日1回以上読んだほうがいいかも(しみじみ)。「感動した」とか「すごい」とか、軽々しく言えない奥深さ。これが本当のスピリチュアルであり、愛であろう。
 全体が心に残るが、あえていくつか抜粋してみる。まず最初に私の心に飛び込んできたところから。
 ありがとう

ありがとう、
私決めていることがあるの。
この目が物をうつさなくなったら目に、
そしてこの足が動かなくなったら、足に
「ありがとう」って言おうって決めているの。
今まで見えにくい目が一生懸命見よう、見ようとしてくれて、
私を喜ばせてくれたんだもん。
いっぱいいろんな物素敵な物見せてくれた。
夜の道も暗いのにがんばってくれた。
足もそう。
私のために信じられないほど歩いてくれた。
一緒にいっぱいいろんなところへ行った。
私を一日でも長く、喜ばせようとして目も足もがんばってくれた。
なのに、見えなくなったり、歩けなくなったとき
「なんでよー」なんて言ってはあんまりだと思う。
今まで弱い弱い目、足がどれだけ私を強く強くしてくれたか。
だからちゃんと「ありがとう」って言うの。
大好きな目、足だからこんなに弱いけど大好きだから
「ありがとう。もういいよ。休もうね」って言ってあげるの。
たぶんだれよりもうーんと疲れていると思うので……。

 これは、多発性硬化症に罹患されていた雪絵ちゃんの作品である。多発性硬化症というのは、発熱発作が起きるたびに目や筋肉の機能が消失していく(リハビリでもどることもある。ただ、発作前のレベルまではもどらないということだ。)病気だそうだが、目や足に感謝の言葉を贈る雪絵ちゃんに、泣ける。
 振り返って私はどうか?????というものだ。(考えるまでもないね【静かに反省。】。)

 また、雪絵ちゃんと交流のあった山本加津子先生のこの部分。
 たとえば、「私ね、今日、車ぶつけちゃったの」って言ったらね、雪絵ちゃんがね、「よかったね」って言うんです。
それでね、私が「どうして?」って。

 そのとき、私、車買ったばっかりのときだったのにね、バックしてね、自分の家の塀にばーんとぶつけちゃったんですね。
本当にね、最初に運転をしたときだったから、雪絵ちゃんに「大ショック」って言ったら雪絵ちゃんが「よかったね」って。

「だって私、ぶつけちゃったんだよ」って言ったらね、雪絵ちゃんがね、「かっこちゃんぴんぴんしてるじゃない。かっこちゃん、少しぶつけといた方がいいよ。そうしたら後ろ向いて、ちゃんとバックするようになるから」って。

そう言われたら、本当にちゃんとバックするとき、後ろ見てなかったわと思いました。そのあと、本当にね、ちゃんと後ろ見るようになってね、よかったなって思ったんですよね。

 うーーーーーーーーん。(しみじみしみじみしみじみしみじみ。)もう、言葉がない。
 読み進めていくと、さらに深い内容になり、雪絵ちゃんの「願い」もわかる。素晴らしい願いである。
 日ごろ自分のことしか考えず、不平不満は多く、恵まれているのにそのことにいちいち感謝しない自分を反省し、「本当に進化している人って、こうなんだなあ。」と深く感じ入るのであった。きっと何度も転生して、今生も選んで、生まれてこられたのであろう。
 やっぱり、毎日読んだほうがいいかも(しみじみしみじみしみじみしみじみ)。忘れっぽいしな、私(←こんな大切なことを、忘れるんじゃない!!!)。