雨の日曜日

 「梅雨の終わりの浄化雨」か知らないが、今日はめちゃ雨が降った(大爆発)。不肖・ロズ子○○才は、ペルビアン・シードを握りつつ目覚め、午後からは買い物(の見学)に出かけた。「お付き合い」である(大大大大大爆発)。
 外出中も、いや増す雨脚。ワイパーを全速力にしても、いまひとつ見えにくい前方。「…雨の日の外出。嫌いじゃないぜ(出勤途中は願い下げだが。)。」と心の中でつぶやく私である。
 雷も鳴っていたが、雨と雷は浄化と石のチャージにもいいという(←伝聞。)。家に置いてきた石たちよ、各々で浄化&チャージしてくれい。とこれまた心の中で考えた。
 雨はそんな私の思惑とは全然関係なく降る降る、ものすごく降る(大爆発)。これでは、22日の日蝕は(我が地域では)見られるかどうか大変怪しいものである(←見たい見たい見たい〜〜〜〜〜!!!!!!)。
 さて、『リコネクション』(エリック・パール著、ナチュラルスピリット)を読むと、いろいろ参考になる部分があるが、今特に印象に残っているのは「儀式は必要ない」というところである。私は、石を持ち歩いたり、(あまりしないが)「浄化」と称して石を風呂に入れたり、サプリメントを飲んだり鉄剤を飲んだりしているが、これはすべて依存であり、それをすることによってかえって「自分にはこれが足りない」という意識を強化しているのか。と、改めて考えさせられた(しみじみ)。
 場を清めたり(注:霊的な意味で。)、石に依存したりということが全て「恐れ」から出、結果として自分を縛っているのだとしたら。やはり、「手放す」ほうが自由な感じがする(しみじみしみじみ)。
 私は好きで石を持っているのであり、決して依存などしていない。と言い切れればいいのだが、改めて我と我が身を振り返るに、やっぱり依存しているな、自分(大大大大大爆発)。
 「光が集まってくる」という感じで、その人のもとに石がたくさん集まり、それを世の中に広めていく、という役割のかたもいらっしゃると思うが、私の場合はそういうことで石が集まっているわけではない(←自分自身が集めている)。
 いや、好きでやっているので今はそれでいいし、やめるつもりもない(←財布的にはやめたい。)。ちょっと考えてみただけである(←浅い考え。これ以上は深まらないね、この考え。)。
 ただ、エリックの言葉が私自身の状況を適切に表現していたということをここに記すのみ(しみじみ)。
 さ、今日も石を握ってゆっくり寝ようっと!!!!!!!(←いつも常にこれ。)