もどってない「私」

 昨夜も石にまみれて(!)寝ていたが、朝になったらやっぱり手の中にはオーロベルディだけがあり、あとは布団のなかでちゃんぽんになっていた。
 よっぽど今の私に必要なエネルギーなのであろうか、オーロベルディ(さあ。)。メタモが変化したあとの最終形態の石、いったい私にどうしろと?????(さあ。特にどうしろとも言っていないのかもしれないが。)
 つるつるで手触りのいいタンブルなので、ついつい握ってしまうのかもしれないが(←考察。)。
 さて、今朝は新聞を開くと、「あなた どちらのタイプ?短歌型 俳句型」という記事が載っていた(大大大大大爆発)。
 歌人の佐々木幸綱氏と俳人の坪内捻典氏が、人は「短歌型人間」と「俳句型人間」に大別されると提唱したのだそうで、曰く、客観的・冷静・自己をもちゃかす道化的精神の持ち主が「俳句型」、主観的・情熱的・自己陶酔的・まじめ、なのが「短歌型」なのだそうだ。
 「俳句型」の例として、田辺聖子井上ひさし野村克也夏目漱石。「短歌型」の例として、曽野綾子大江健三郎長嶋茂雄森鷗外。この列挙を見て、私は思った。
 「私は俳句型だな」と(大大大大大爆発)。
 私は主観的な女だが、来し方の自分を振り返るに、基本は完全に俳句型である(しみじみ)。例に挙がっている人々についても、俳句型のほうにシンパシィを感じる(でも長島さんは好きだけど。その発言の数々が【爆】。)。で、それでいいと今まで思っていたのだが…
 どうもこのごろ、時々(いや、しょっちゅう)短歌型に移行しているようなのであった(大大大大大爆発)。
 基本と異なる、主観的・情熱的・自己陶酔的な「私」になっているというわけである(大大大大大爆発)。これはここ2か月近くの傾向で、今までも日記に書いてきたとおり、自分から何かが抜け出るような遊離感を伴っている。心ここにあらず、何だかふわふわしています、というときが増えているのだ(しみじみ)。
 しかし、今日、外出の支度のために鏡に向かっていた私は、鏡の中の自分の目を見て思った。
 「戻ってきたな。」と。(大大大大大爆発)
 なんと長いこと、グラウンディングしない状態だったものであろうか(しみじみ)。今日はしっかりしているぜ。自分が自分にもどったな。と思いつつ、習い事に出かけ、帰ってきて現在に至っているのだが。
 時間の経過とともに元の木阿弥(大爆発)。今はまたしても「短歌型人間」へと変異(!!!!!)している私である(大大大大大爆発)。
 なんだかなあ(しみじみ)。オーロベルディは、こんな私を適正な位置へともどすために働いているのだろうか(さあ。)。
 とにかく、今の私は思っているのであった。「何も戻っていなかったな、自分…。」と(大大大大大爆発)。