読み物2つ

 今日は1日どんよりと曇り冷たい雨が降り、天候的には「あいにく」な感じの日曜日(←とは言え、雨も降らないともちろん困る。)。しかし、お天気関係ない「家虫」の不肖・ロズ子○○才は、いつも通りのゆるい日曜日を過ごした。
 本日も金曜日入手の「変な本」(←失礼。)を読みつつ、レインボー・クォーツを握る(しみじみ)。変本の強波動(?)にもだいぶ慣れ、もはや余韻でいつまでも振動する、ということはなくなったが、それにしても変わった本である。
 読みながら、レインボ・クォーツに唇を当て、呼吸とともにその波動を身体に取り込もうと試みる。何となくそうしたほうがいいように思ったからだが、唇に当たるポイントの感覚が、つ、冷たい…(←「水晶」だということをここで実感【爆】)。
 この本は、「女性性」ということを言っているようだ(←まだ最初のほうしか読んでいないが、そう感じる私【というか、間違いなくそれだろう。】。)。自分を振り返り、「…性別こそ女性だけど、今まで(もしかすると今でも)『おっさん』みたいなところが多々あったな、私…。」と反省する私である。
 それは、男性中心社会の価値観に組み込まれていた、という点でだ(しみじみ)。私はそれを嫌悪してきたが、それでもやっぱり、けっこう組み込まれていたのだ…。
 なにせどこもかしこもそうだし(大大大大大爆発)。と、(自分の意識は棚に上げといて)環境のせいにしてみる私であった(←不毛だが、ある意味本当。)。
 このところ、「女性性の時代」という文章を時々目にする。「依存を断ち切れ」、という文章もだ。
 これは偶然なのか、それとも偶然ではなく、すべてシンクロなのか。
 今のところは何とも判断できない私なのであった。
 夜はこれまた偶然、「Wandrers Nachtlied」(旅人の夜の歌)という、ドイツはキッケルハーン山頂のすぐ下の山小屋の壁(!)にゲーテが書いた8行詩についての講演録を読んだ。
 これは17ページぐらいあり(!)、まだ3分の1強しか読んでいないのだが、この詩に関連して以下のような講演が展開しており、おととい書いた我が駄日記につながっていく(!)のであった。
 「キッケルハーン山頂付近にはドイツトウヒが数本生えている」→「ドイツトウヒは根が横に張って、モミより成長が3倍速いので、クリスマスツリーとしてはモミよりもお手頃(←3分の1。)」→「だが、だからといってそのことがドイツトウヒの価値を損なうものではない」→「例えば、一般的にヴァイオリンの表の板はドイツトウヒでなければならない(←木目がまっすぐで、木質が均一で軽量であるため、音の伝導がいい。)」→「ストラディバリなどの名匠たちは、チロル地方の山中に生えているドイツトウヒの木を若いときから買い取り、『この木は自分の木』と所有者の名前をつけ、成長をまってヴァイオリンを作っていた」
 ゲーテは確か、鉱物学にも関係していたような(気が)。
 ああ、あったあった、この講演録のかなり先に、「ゲーテ31歳の9月6日の夕方、鉱山の開発と鉱物学調査を兼ねて、テューリンゲンの森の中で一番高い861メートルの山、キッケルハーンに登ります。」だって(大大大大大爆発)。
 散歩時には必ずハンマーを持って、岩や石を採取して持ち帰ったそうな(しみじみ)。ゲーテの家にはその鉱石標本がたくさんあると(爆)。
 以上、フェリス女学院理事長、小塩節(たかし)氏の講演内容でした(出典)。
 この先を読みすすめると、さらなるシンクロ、いやさ、身につまされる記述がある予感。
 これもゆっくりと読んでみるのであった。(何となく泣く。)
 *ちなみにゲーテの8行詩は、下記のとおり。
"Wandrers Nachtiied" (Johann Wolfgang von Goethe) 「旅人の夜の歌」
Uber allen Gipfeln すべての峯の上を覆って 
Ist Rufh, 憩いがある
In allen Wipfeln  すべての梢に
Spurest du     お前は そよ風のいぶきの
Kaum einen Hauch;  跡をほとんど見ない。
Die Vogelein schweigen im Walde. 小鳥は森に沈黙している。
Warte nur,balde   待つがよい やがて
Ruhest du auch. お前も憩うのだ。
*どうやって出したらいいのかわからなかったので、oとuにつけるべきウムラウトは省略(しくしく。)。