「冬」

 今日は全国的に気温が下がったのだそうだが、不肖・ロズ子○○才の地域でも非常に温度が下がり、昨夜からふくらはぎのあたりが痛いほどに冷たかった(←注:これでも家の中【大爆発】)。
 今朝もやはり寒く、私は会社へ行くのに久しぶりにコートを着、しっかりとボタンをかけた。そして、「今日は、『春』じゃなくて、『冬』を聴きながら行くんだわな。」と思った。千住真理子演奏のヴィヴァルディ「四季」のCDのことである。
 金曜日からこのCDをずっと聴いていたので、もう土曜日の夜には飽きていた(大爆発。飽きっぽい私である【反省。】。)のだが、日曜日にたまたまゲーテについて読んで、そこにストラディバリが出てきたので、また月曜日からも聴いている私である。
 「ストラディバリが自分の名前までつけてチロル地方でドイツトウヒの若木を育てて、それで作ったストラディバリウスの中の1本がこの『デュランティ』。」という想像が働いたためである。
 そこまでして作られたヴァイオリンということになると、当然歴史歳月の重みと意識とが宿っていることだろう(しみじみと想像。)。ストラディバリは死んで、ヴァイオリンは残る。
 人間って儚いなあ(大大大大大爆発)。
 千住真理子が弾く「デュランティ」の音は、まさに人間が喉を震わせているような音で、とても強くこちらに訴えかけてくる(しみじみ)。「冬」、まさに今日のお天気にピッタリだぜ(しみじみしみじみ)。
 聴いていると、痛いほどに冷たい風が、木々の間を吹き抜け雪を吹きつけ、窓を叩く様子がありありと感じられる。第2楽章のピチカート(←これはN響のみなさまが演奏しているんでしょうけど)は、暖炉の火が燃えている様子をものすごくよく表現していて、聴いているだけで暖かく溶けていくようだ(←その気になりやすい私。)。
 私は、千住真理子のコンサートにたぶん4〜5回行ったことがある。一番最近が去年の春だったが、このときは偶然にも超苦手同僚A氏が極近の席にいた(!)ので、心からは集中できなかった「無念コンサート」であった。
 それでもコンサートは素晴らしく、堪能した。最後にファンから花束が差し出されると、千住真理子の目がぱあっと輝き、それはそれはものすごく光輝いていたっけ(←このときはこれでびっくりした私。)。
 最初にコンサートに行ったのはもっとずっと前、このとき千住真理子はまだ20代だったと思うが、このとき一緒に行ったグループの中の一名は、美しき千住真理子に大興奮して、アンコール後に以下のように叫んだ。
 「ううん、××(←注:我が地域名。)に△△(←注:この叫んだ人の名前。)有りと知らせたいっ!!!!!!!!!」と(大大大大大爆発)。
 実際にステージまで走りこそしなかったが、キモチでは充分、ステージに上がっている感じであった(しみじみしみじみしみじみしみじみ)。
 キラキラ輝く千住真理子は、ご本人が宝石のようだ(しみじみ)。もちろん、意志のある楽器「デュランティ」もそうである(しみじみしみじみ)。
 今日は、窓の外の牡丹雪を眺めながらレインボー・クォーツを握り、しばし瞑想的思考にふけった。レインボー・クォーツは昨日に引き続き、紫や赤の光を多めに出している。
 雪は浄化のように一定のリズムで降り、レインボー・クォーツは静かにきらめく。私は通常は、そんなにしがみつくほうではない(←たぶん。たぶんフツーだと、自分では思う【大大大大大爆発 】。)。
 「手放す」というよりも、そろそろ「開放する」ときなのだろうか。そのほうが喜ばれるのだろうか。
 と、降る雪とレインボー・クォーツの光を見ながら、自分に問いかけるのであった。(←できればねそんなことが【きっとできないだろうけどね《爆》】)