「信じる」力

 今日は3連休明けの出勤日(爆発)。会社とはありがたいところではあるが、不肖・ロズ子○○歳は、やはり若干「面倒くさいわあ。(←注:罰当たり。)」と思いながら、よろよろと会社へと出かけた。
 そうは言っても3連休中の過食でまた体重が増加しているので、会社では一生懸命動くように努める。今日はまさに単純肉体労働として、若干重いものを持ってトータル1kmぐらい歩き、私はお昼を前にしてバテてしまった。
 ううむ、仕事のためにエネルギーを使っているのか、エネルギーを使うために過剰な肉体仕事をやっているのか、自分(←注:たぶん後者。)。これでバテてあとの3日が使いものにならないとしたら、全然何にもならないぞ(大大大大大爆発)。
 バテバテでお昼を食べる(爆)。今日も『新約聖書』を読み、ピンク・スギライトを握った。
 『新約聖書』については今、「ルカによる福音書」にさしかかっているところである。「ルカ」は「マタイ」や「マルコ」に比べてストーリー的にデコラティブで、「うっそーーーーー。(←注:まごうかたなき罰当たり。)サービスして書きすぎ。」という感じである。
 これが「ヨハネ」になると、全然趣が違うんだろうな…(と想像。)。『聖書』はゆっくり読むわけだが、「ヨハネ」を読むのが楽しみだぜ。(爆)
 今日はネット検索をしていて、「無人島に石を持っていくとしたら」というようなタイトルの石ブログを見つけた。
 たくさんの石について、書き手の方が詳しく書いていらっしゃり、大変興味深い(しみじみ)。アンダラも出ていたが、うーーーーーーん、「石」のパワーについては、やっぱり個人個人の受け取り方次第なんだなあ(←しみじみと感想。)。
 感受性というべきか(←考察。)。それとも、自分が信じたいものや、信じたい方向に自ら進んで行くのだというべきなのか。
 アゼツとかアンダラとか2012クリスタルとか、私の「石歴史」もそういう感じなのだけれど、そこに「信じる気持ち」があるかないかで、石のパワーは相当違った姿をそれぞれの人の前に表すのかなあ。
 と、思ったのであった。(しみじみ。)